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2016年月

2016/9/13 火曜日 5:35 PM

魅せられし河より「ボーボー広場」

「フジタの目に重要なものとして映る (唯一の) 風景は、都会の風景である。 なぜなら、都会は人間の創造物だからである。

都会は、人間、その仕事、私的または公的な生活、感情の鏡でさえあるからである。

フジタは、恵まれた独創性により、都会の画家の系列に含まれる。

フジタにとって都会とは、何よりもパリ (及びその近隣) である。

フジタのパリは、忘れられた下町、老朽化した大きな建物、人通りの少ない通り、ありふれた店、質素な庭師のパリ、時には 「貧民街」 や工場の煙突のパリでさえある。

しかし、こういったテーマの選択に、悲惨な面を好んで描こうとする意図を決して見て取ってはならない。

フジタは、そこにより多くの人間味をみつけたからこそ、こういったみすぼらしくても、親しみのあるパリを描いたのである。

そこには、人物はほとんど見当たらないが、全てのディテールがきわめて正確に描写されている。

不揃いのこれらの古壁は、人間の顔のように豊かな表情をもっている。」

B、ド・モンゴルフィエ 『フジタ芸術随感』 (レオナール・フジタ展」、アート・ライフ刊、

1986年) 収録より引用

2016/7/12 火曜日 10:07 PM

藤田嗣治の美しい リトグラフ '眠る女性' と劇作家 ジャン・ジロードゥーの文章、そして斬新な装幀で人気の1940年にパリで刊行された挿画本「面影との闘い」の翻訳を入手しました。 1960年代の後半に新潮社より出版された「人類の美術 サロン」の別冊に「一枚の絵との対話」というタイトルで3回に渡って連載されています。 訳は岩崎力氏。 名訳です。

以下は抜粋です。

『数日前から、ホテルの部屋に入るとき、私はいつも用心し、ひそかな下心をおぼえずにはいられない。 私の部屋はもはや独房ではないのだ。 そこに入るとき私は目で何かを探し、あるいはなにかを避けようとする。 あかりをつければ私はなにかを照らし、ドアをしめればなにかを夜のなかに投げこむ ー 私にはそれがもう見えない、しかしそれはそこにあるのだ。 敗戦以来はじめて私はあるものをもち、所有し、あるもんが私と一緒に暮らしている。それはまるで偶然私の部屋に入りこんだかのよう、それというのはフジタが厚紙に描いた女の顔の絵だ。』

 

2016/6/17 金曜日 12:31 PM

版画という言葉を聞いて皆さんは何を思い浮かべますか?

わだばゴッホになるの棟方志功、国際展で一躍有名になった池田満寿夫、歌磨呂、北斎、写楽の浮世絵版画。 海の向こうなら木口木版のデューラー、レンブラントの銅版画、シャガールのリトグラフ、ウォーホールのシルクスクリーン。

デューラーの時代から現代まで、版種も木版、銅版画、石版画(リト)、シルクスクリーンと様々ですが全てにおいて共通の版画作品、最大の特徴とは何でしょう?

答えは複数性。 同じ作品が複数枚あるということ。 これこそが油絵や日本画、浮世絵肉筆などの一点物と違う、版画作品の最大の特徴です。

それゆえに美術品コレクターにとっては同じ作家の作品でも比較的手に入りやすいということになるわけです。 美術作品の普及という点で版画の果たした役割は大きいものがあります。

さて、ここからが本題ですがこの版画の同じ作品が複数あるということは当然、価格にも反映され同じエディションの作品は価格も全て同じと皆様は思われるのではないでしょうか?

残念ながら答えはノーです。 現存作家の場合はあるいはイエスかもしれませんが厳密に言えば複数のコレクター、あるいは画廊の手を渡っていけば現存作家の同じ版画作品であっても価格には若干の差異が生じてきます。

これが物故作家となればなおさらのこと、同じ版画作品であってもコンディションの問題(旧所有者の保存状態等)が大きく影響してきますし、仮にエディション200枚の作品が一遍に200枚、市場に出るなどどいうことは新作版画と違ってありえない分けですから扱う画廊、画商の仕入れ価格は同じ作家の同じ版画作品であっても大きな違いが生じてしまいます。

中古車の世界でヴィンテージカー(旧車)という言葉がありますが仮に '67年式のフォード・マスタングと言っても一台、一台のコンディション等によって価格は大きく異なってきます。

物故作家の版画作品もこれと同じ。 版画(複数性が特徴)と言っても、もはや一点物と言っても良いのかもしれません。

版画作品といえども一期一会、欲しい作品は出会った時が勝負です。 一度のがすと次の出会いはなかなかないのかもしれません。